選択と人生 他

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◼︎あまり続けることができなかった人生で、「これに適正はあるだろうか?」「これが最適解だろうか?」と思いながら始めてみてはある程度できたところで「やーめた」となるタイプであった。突き詰めるためには忍耐だけではなく、それを選ぶ(あるいは選び続ける)勇気が必要であって、私にはその勇気が足りていないと常々思う。「知る」段階の最初にある好奇心が落ち着き、「知っている」段階になった後、どれくらい「さらに知る」「知り続ける」を選ぶことができるのか。今の私に「知っている」次段階に進めているものはあるのか。選択することの難しさに毎日直面している。

 選択することは、片方の選択肢を捨てることではない。頭ではわかっているが、どちらか一つしか選べない状況というのはかなりの確率でやってくる。選ばなかったもう片方を選ぶタイミングが次来たとしても、それは1年、3年、10年先だったりする。その割に選択肢の分岐に立つことは多くて、その時のノリだったり興味関心で決めたりする。新しく始めたはいいものの、知った先で違うかも、と思うことはよくある。それに悩んだり、また間違えたと思ったりする。そして、別に好きなものだけ好きでいればいいのでは?という気持ちと、勉強や知らないことを知ることを始めたい、と思う気持ちが拮抗してきたりする。

 選ぶことについて、いろいろ考える。私自身に関することもそうだし、仕事も、私に関係ない人も、友人も、世界情勢も、全部誰かが選んでいる。私の何の気のない選択が、誰かの人生に影響を与えたりする。そのことが、すごく怖くなることがある。何を話すのか、誰と会うのか、一人でいるのか、どの道に進むのか、どちらにノーを唱えるのか、選択肢はいつでもどこにでも転がっていて、その選択肢が私の中で重要なこともあれば、重要でないこともある。私にとっての最大の選択が、世間にとっては何でもないことも多い。でも、毎日何かを選んで進んでいる。

 選択に後悔することも多いし、選んでみて良かったことも多い。

 そういう選ぶだったり、選ばないだったり、選べないことについて、同人『20:30』vol.5では二つの詩を書いた。もう少し上手く書けた気もするが、「書き終えた」という選択をしました。もし気になる人がいればぜひお手に取ってみてください。

 

 

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◼︎あとは少し最近のこと。ポーランド映画祭にて『バルコニー映画』を観た。監督はパヴェウ・ウォジンスキ。彼の自宅にあるバルコニーからほぼ定点で撮影され、道ゆく人に「人生の意義は?」を聞くという内容のドキュメンタリー映画。監督の優位性(性も金銭面ももしかしたら育ちも)からくる不躾さにソワソワしながら、バルコニーからバルコニー下の歩道を歩く人々を眺める構図にやや居心地が悪くなる。こういう優位性みたいなのって突然浮き彫りになる時がある。出てくる人は恐らく彼の近所に住む素人の人々。人生を歩んできた年配の方や、夢を語る子ども、妊娠→出産を経た夫婦、出所をして家を借りられず物乞いをする人、など出てくる人は様々。それぞれに人生があり、共通する「人生の意義」などない。強いて言えばみんなそれぞれ一人だし、誰かと繋がって生きていることだけは変わらない。「人生の意義は?」を見つけたり聞くこと自体が、かなり不躾で、身勝手で、傲慢だなと思った。

 

◼︎武新作の『首』も見た。2019年に新文芸坐で武映画オールナイト上映を観てからまんまとハマってしまい、ハマってからは初めて劇場新作を見ることができた。かなり笑えた、コメディーだった。出演者としての武も「ビートたけし」という感じ。誰かを欲してしまう状況みたいなのってあるよなあ、と思いながら見てた。インタビュー読んでもう少し考えたい。

 

◼︎他、荒井良二展や開催決定時から行きたかった「みちのく いとしい仏たち」展にも行った。特に荒井良二展は形式とかやってはいけないこと、に問わられずもっと自由にしていいんだと思えたのがすごく良かった。型にはまるとか、ぽくないとか、全部捨てていきたいな。

 最近インプットを書き留めたりしてこなかったので、これからはこまめにやっていきたいと思っている。

 

◼︎大学入学ごろに書いていたはてなブログを引っ張り出し、シワも伸ばさず、ここでまた書き留めていく。これもまた選択の一つ、続けることができなかったのではなく、最善を探している、ということにしたい。