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朝からブログを書くのは初めてかもしれない。

昨日は早稲田松竹で『イン・ザ・スープ』と『スモーク』を見て、なかなかいい気持ちで電車に乗っていたら最寄駅に近づいていくにつれ、なかなか悪い気持ちに変わっていったので、それをはてなブログに書き殴っていたら5回ほどアプリがおかしくなり、消えた。6回、書き直したりはしなかった。

 

最近、色々な人に「うしやまのツイッター意味がわからない」と言われるのですが、ツイッターって何呟いてもよくないか?フォロー/フォロワーの関係があるからそんなこと言われるのかな。タイムラインに半強制的に他人のつぶやきが入ってくるからかな。ほとんどのツイートを、つぶやきとして呟いているわたしにタイムラインもくそもなく、寧ろ現実のつぶやきと同様に一瞬で世界に紛れてほしい、くらいにおもってます。つまり、わたしのツイッターに特に何かを伝えたいという意志はなく、ましてや情報を発信しているわけでもない。日常生活において時々鼻歌を歌いたくなって歌ったり、ふとため息をついてしまったり、等と同様な行為であります。SNS大好きだけどSNS向いてないのかな。あまりにも言われるので言い訳をした。

 

ここ3ヶ月くらい承認欲求について考えている。人間に承認欲求が伴わなくなったら、死んだようなものかな。誰かに見てもらってないと生を実感できない生物、ほんとうにひとりでいると生きているのか考えてしまう生き物、他者や社会との繋がりによって息を実感する生き物。

今、承認欲求というものが私の全人生の中で一番なく、音楽やりたい気持ちはとてつもなくあるのに、伝えたいことも聞いてほしいこともほとんどない。漂流郵便なんて書かなきゃよかったのかな〜〜。承認欲求って人間の欲の中で一番恥ずかしくないかって言ったら、承認欲求がない方が恥ずかしいよって言われたから、それを飲み込んで消化していきたい。承認欲求とは恥ずかしくないことである。引っ越したら何か変わるかな、とアホみたいに考える。

 

前回ブログを更新してから29日くらい経ちましたが、特にこれといって何か特筆すべきことがあったわけではない。狭いこの場所で息をしていたら、地球は自転し気づかぬ間に日付変更線を超え、よくわからない時間の区切りにただただ従っていた感じだった。人間はひとりひとり違く、感動や悲しみ等の感情の動きを、他者と完全に共有し、他者の前に再現したりすることはできないと、実感はしたかもしれない。

わたしたちはみんなちがうにんげんなので、ひとりひとりちがいます。かんがえていることも、みえるせかいも、ひとりひとりちがいます。みんなおなじにんげんですが、みんなちがうにんげんです。それはけっして、おかしいことでもわるいことでもありません。しごくあたりまえなことなのです。

普通という基準がなんなのか知らないけど、自己を他者に投影して、思考が違うと理解できず勝手に嘆くのは、お門違いだということを意識していたいです。

例えば、ひとりひとり違う色彩を持っていたら。虫や犬と人間では見えている色が違うけど、人間同士の中でも生まれつき持っている色彩が違っていたら。今私が見えている青という色を、私の中の赤という色として認識している人がいたら、色の組み合わせの好き嫌いも感じ方のちがいも現れてくるだろう。私にとっての青色の青が、他者にとっては生まれつき赤色の青だったりする。うまく説明できないけど、私にとっての赤色が、他者には青色として見えていたりしたら・・・・・・説明できない!

 

違いというのは生を受けた時点で備わってくるものなのかもな、なんて思うってことだ、私が見てる世界が他者には違う風に見えるのも、他者が見ている世界が私には見えなかったりするのも、仕方がない、なんてことないことだ。というわけでツイッターにも、同じであることを求めないでほしい。29日間そんなことを考えた。

 

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あたまのなか

最近かんがえていたことを、整理したいからまとめてみる。

 

とある授業で読物と文学の違いは、事件があるか否かである、と教わった。事件とはその経験前後で、自分の内部の一部若しくは全てが変わる、ということであるらしい。 

10代の頃に体験した文化的な衝撃は、その後の人生において深く影響を与えるものだと思う。おそらくその都度事件が起こり、自分の中の常識が崩壊する。3年後の自分が常識として理解していることも、10代のうちでは違うことだ。例えば、人間が生き、いずれ必ず死ぬという自明な事実も、10代のうちに体験すれば、大きな事件のひとつであるだろう。

 

しかし、大人になるにつれて、事件と出会う確率は格段に減っていく。

事件とは別に、生活をしていると私たちの常識が壊れ、変わることがある。子供の頃に許されていたことが子供であったから許されていた、と知ることがある。その時、私たちは自分の中の常識を変える。その常識は、大人になればなるほど、生活の月日を重ねれば重ねるほど、固定されていく。そして、まだ無知な常識の人々を子供だなあと思うようになるのではないだろうか。

 

では、大人とは一体なんなのだろう。

自分で働くようになってから?20歳を超えてから?お酒を飲んで深夜まで起きているから?だから大人なのだろうか。

子供になりたいと思ってしまった時から、私は大人になってしまったんだと思う。勿論まだまだ無知だし、子供っぽいところもたくさんある。だけど、大人と子供の狭間のような場所に立っているのだと思う。少し、昔の常識が崩れ、新たな常識が生まれていく。その過程が、大人になっていく、ということなのではないだろうか。

 

世界に新しいことは、何もない。だからこそ、私は既知の中から未知を見出す生活を送りたいと思っています。既知の中で事件を体験し、常識が崩壊するような、生活。《既知を疑え、未知を遊べ》、そういう謳い文句に踊らされてこの学部に入学したけれど、まだ間違ったとは思っていない。毎日楽しい。

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一回書いて、消えてしまったから書き直したものの、全然違う文になってしまったような気がする、悲しい。

 

 

この世界の片隅に

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この世界に絶対はない。だけどこの世の全てのものが生まれ、そして死ぬ。それだけは、絶対。

この世界の片隅に』を観ました。受験だし、と後回しにしていて、もうタイミングがないと思ってた。ある授業で観て来いと言われたのがきっかけだけど、観て良かった、本当に観て良かった。

私達が学んだ教科書の中の戦争に、一個人は写らない。うつったとしても、軍人や役人だろう。一般庶民の生活は"戦時中の暮らし"という見出しの中に、こじんまりとしか存在しない。ましてやそれも図説の中だけだったりする。そこに一個人はいない、死んだ人を知ることもできない、悲しんでいる人を知ることもできない。そういう、戦時の生活に、しっかりと感情を震わせて生きている人たちの物語でした。

戦争中も人々は生きてる、みんなが笑って暮らせる日を考えながら、死が無駄に終わらないように日本が勝つことを信じながら、生きている。

私は勝手に人間生活は死んでいく過程の一つだと思ってました、終着点は死ぬことだと思ってました。間違ってた。この人たちは死んでいくんじゃない。私も死んでいくんじゃない。生きていく過程に、ちゃんと立っているんだと思う。

 

ということを考えました。とても強くて、知らないことを知った。私は知らないことだらけだ〜〜。1人で見ても泣いたけど、誰かと観たら大切さが攻めてきてもっと泣いてた気がします。まだ観てない人、まだまだやってるから是非ね。きっとみんな見てるよね〜〜。

 

昨日も二本映画を見て、映画強化月間、といわず映画強化年間を始めようと思ってます。恥ずかしながら先日授業で名画座の魅力に気付かされたので二本立てめっちゃ見ようと思います。

昨日見た『幸せなひとりぼっち』も良かった。インプットいっぱい。

 

 

青春ゾンビで紹介されていた漫画『映像研には手を出すな!』を本屋で見つけたので購入。帯に宮崎駿好きおすすめ(他は忘れた)って書いてあった。鉄コン筋クリートとか帝国少年の絵が好きなひともきっと気にいると思う。

f:id:qicmip:20170408130608j:image(鉄コン筋クリート)

f:id:qicmip:20170408130612j:image(帝国少年)

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こういう学生生活に憧れるのは現実を見ることができてないからなのか、子供だからなのか、なんなのか正解はわかりませんが、わたしはこの3人組がめっちゃ好きです。妄想が絵になって現れるところがいいですね。小学校の時探検と銘打って世界時計とコンパスとコンクリに文字書ける石をポシェットにいれて歩き回ってたの思い出しました。中二心は今になっても捨てられないぜ〜〜。興味あれば是非。

 

 

映像研には手を出すな!(1) (ビッグコミックス)

映像研には手を出すな!(1) (ビッグコミックス)

 

 

 

 

 

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oasis フジロック’09爆音上映会に行きました。オアシスはわたしの中でのロックンロールスター第1位です、具現化です。カッコいい〜〜。リアムは上を向いて歌うのに、ノエルは下を向いて歌うのが対称的だなあって改めておもった。oasisのライブに行くのが生涯の夢。なんの曲始まってもテンションあがったスゴイ。

 

 

時間が経つのが圧倒的にはやい。新生活始まりました。新歓と授業開始で大学生春って感じです、ダイガクセイハル。名物先生ばっかり授業とったので受けるのが楽しみです、今日はこれから映画のすべてマスターズオブシネマという講座行くぞ〜〜是枝さんがいるというのは本当なのか。いろんな授業いっぱいもぐりこんでやろうとおもってます、面白い授業教えてください。

「世界がひっくり返っても変われない、なんにもなれない」って大泉洋アイアムアヒーローで言ってた。世界のために変われる人はどれくらいいるんだろうか。私は四年間でせめて自分の世界くらい、ひっくり返して変われたらいいな。!

 

とある一日。

誰かのことを好きになるというのは(友情、恋愛問わず)その人のどこかに共感や共鳴を感じるからだと少なくとも私は思っている。服装の趣味が合わなくても、音楽の趣味はあったり、音楽の趣味が合わなくても性格や価値観が似通っていたり、何故かわからないけど空気感が似通っていたりする。その部分は各々違う上に大きさも違うからか、わたしの好きな人たちはいろんな人がいて、『毎日会うほどじゃないけど好きな人』、『この話をするなら絶対この人』、『ちょっと疲れたから今日はあの人と一緒にぼーっとしたいな』とか、私の中では好きな人たちへのぴったりの居場所がある(上から目線のようで申し訳ない)。

私はよく『牛山といると何も考えず発言してしまう』だとか『安心感がある』というようなことを言われる。最初のうちは「あ〜〜確かにわたし話下手だし、つまらないんだよなあ」なんて真面目に悩んだりもしていたが、それが多分誰かの心の中の私の居場所なんだと思う。『よくわからないけど安心できる人』。このふわふわな位置づけ、とても有り難いです。心地が良くなるのは話しているときに私の中の何かと静かに共鳴しているから、なのだと思う(というかそう思わせていてほしい)。お互いちゃんとそう言うことを内緒に感じられているといい。内緒に。

というのを考えながら、これはカルテットで別府くんが言っていた"ちょうどいい場所"と通じるのではないか、と思いました。居場所がないと思っている人、少なくとも誰かの中にあなたのちょうどいい場所がちゃんと用意されていると思う。ちょっと違うかもしれないけど。

 

 

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昨日、華金。おじさん臭い写真を許してほしい。久々にちはちゃんと会いました。彼女は文を書く人です、わたしの中ではきっとずっと。2人で一杯目に琥珀エビス(初飲でしたが飲みやすい)を頼んで、中年サラリーマンのような食べ物を頼み、だらだら話しました。音楽の話になると中学生みたいだったな〜。産んでくれてありがとうお母さんって感じですね本当に。続けることで見える景色ってこの世にはいっぱいあると、私は思う。そのあと呼んだらうめことちゃんまいが来てくれた、不毛でしたが確実に楽しかったね、人生って感じだった。

 

 

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曽根とドラえもんの映画泣いちゃう、と言うラインをしていて、子供の時より今の方がくるものがあるよねと言うのに、夏が切なくなるのと似てるって返したのが我ながらいいな、っていうのが今日のハイライトです。カンドウスルヨネってなっちゃってるのは誤字です。

 

題名って決められない