水と言葉

 寒すぎやしませんか。この間、春みたいな陽気だった時、春が来ないと思っても春みたいになると感傷的になるのだなと思ったばかりなのに。手袋も、マフラーも、厚手のコートも、ヒートテックも、着てしまった。久々に、忘れたくないことがあったので書き留めておく。 

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 水と言葉は似ている。

 どちらも古い時間から今にかけて流れてきて形がない。形があると思っても、それは容れ物の姿だったりする。話し手と聞き手、その都度の環境によって形を変える言葉と、容器によって隙間にまで入り込んで形を変えていく水は、やっぱり同じもののような気がする。

 いつも言い出せなかった言葉や誤解されたりして忘れられなかった言葉を、喉より脳に近いところに置いている。そこには小さな谷のような、もしくは側溝のような溝があって、私の成仏できない言葉たちはそこにたまっていく。これを密かに言葉溜まりと名付けていたのだけど、その姿は多分水溜りに近いものだったんだと今日大学であった吉増剛造の講演会に行って思った。彼の口から「水溜まりを見つけていかねばならない。」と言い放たれた言葉も、もしかしたら私に合わせて形を変えてしまったのかもしれないけど、その通りだと思った。馬琴によれば水溜りには宇宙があって、そこに何かが住んでる、らしい。たまっている水を見つけていきたい。どうにか気づけたらいいなと思う。

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 つかむことも触れることも確かめることもできない言葉は時には誰かを抱擁するし、時には誰かを殺したりもする。それは手の隙間を滑り落ち、時には暖かく抱きしめ、時には凶器となって人を殺す水にやっぱり似てるんだと思う。言葉足らずで口下手だからなのか、勝手にそんなことを思いました。いまみたら1番最初の記事にすごく似てた。

 

 「風景や空気が持ってる官能性とか色気的なもの」についての話も聞けたから今日行ってよかった!