記憶

 寒くなりましたね。いつのまにかヒートテックやらセーターやらを着ています。コートはまだ我慢してる。家の前にある金木犀もいつのまにか花が散っていました。書きたいことがいっぱいあったような気がしてパソコンを開いたのに、なんだかそんなに書きたいことでも無いかな、と思ってしまった。

 

 寒くなってきたとはいえ、日差しが出ていると凍えるほど寒いということもなく、散歩をしてしまう。家の近くに良い感じの大きい公園が2つもあって、よく足を運ぶようになった。その一つは最近開拓したのですが、初めて行った時、お弁当を買って芝生広場みたいなところに座って食べた。どんどん沈んでいく太陽がオレンジ色に変わっていって、それに照らされて落ちていく葉っぱとか、はしゃいでいる大人や子供とか、そういうものがたくさん同じ場所に存在していて、とてもよかった。最近はそういうものを見たりすると、必ず悲しくなってしまう。そういう素敵な景色に出会うたびに、その日に何を着てたとか、何を食べて、どういう道で帰って、とか、何を話してどう感じたとか、そういう諸々のことをやっぱり忘れていってしまうのを、ちゃんとわかってるけど、絶対忘れたく無いなあと思ってしまう。

 

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 なぜ記憶は忘れていくように設計されているのかと最近よく考えます。全て覚えていられるようにしておいてもよくないですか。そんなこともないのかな。ロロの『父母姉僕弟君』を見た後も、考えちゃったな。ロロは泣いてしまった。笑えるところもたくさんあった、みんなで歌を歌うとことが幸福すぎました。そして、、、、という気持ちです。

 話は戻りますが、この話をしたら楽しいことはさらに楽しいことがあったと思えるように、忘れて行ってしまうのかなという話をされ、確かに、と思った。じゃあ、悲しいことはそれ以上悲しいことがないと思えるように忘れられないようにされてるのかな。もっと何か生物学的というか、精神分析学的というか、何かしらの学問的回答が用意されている気もしますが、読んでる人がいるのなら、なにか思いついた際に教えてください。

 

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   そんな感じだ。エイプリルフールズというバンドを組んだ。まだ2回しかスタジオに入っていないけど、いつも楽しいかんじで、いいかんじです。いろいろいっぱい試せれば良いなと思う。以上