とある一日。

誰かのことを好きになるというのは(友情、恋愛問わず)その人のどこかに共感や共鳴を感じるからだと少なくとも私は思っている。服装の趣味が合わなくても、音楽の趣味はあったり、音楽の趣味が合わなくても性格や価値観が似通っていたり、何故かわからないけど空気感が似通っていたりする。その部分は各々違う上に大きさも違うからか、わたしの好きな人たちはいろんな人がいて、『毎日会うほどじゃないけど好きな人』、『この話をするなら絶対この人』、『ちょっと疲れたから今日はあの人と一緒にぼーっとしたいな』とか、私の中では好きな人たちへのぴったりの居場所がある(上から目線のようで申し訳ない)。

私はよく『牛山といると何も考えず発言してしまう』だとか『安心感がある』というようなことを言われる。最初のうちは「あ〜〜確かにわたし話下手だし、つまらないんだよなあ」なんて真面目に悩んだりもしていたが、それが多分誰かの心の中の私の居場所なんだと思う。『よくわからないけど安心できる人』。このふわふわな位置づけ、とても有り難いです。心地が良くなるのは話しているときに私の中の何かと静かに共鳴しているから、なのだと思う(というかそう思わせていてほしい)。お互いちゃんとそう言うことを内緒に感じられているといい。内緒に。

というのを考えながら、これはカルテットで別府くんが言っていた"ちょうどいい場所"と通じるのではないか、と思いました。居場所がないと思っている人、少なくとも誰かの中にあなたのちょうどいい場所がちゃんと用意されていると思う。ちょっと違うかもしれないけど。

 

 

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昨日、華金。おじさん臭い写真を許してほしい。久々にちはちゃんと会いました。彼女は文を書く人です、わたしの中ではきっとずっと。2人で一杯目に琥珀エビス(初飲でしたが飲みやすい)を頼んで、中年サラリーマンのような食べ物を頼み、だらだら話しました。音楽の話になると中学生みたいだったな〜。産んでくれてありがとうお母さんって感じですね本当に。続けることで見える景色ってこの世にはいっぱいあると、私は思う。そのあと呼んだらうめことちゃんまいが来てくれた、不毛でしたが確実に楽しかったね、人生って感じだった。

 

 

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曽根とドラえもんの映画泣いちゃう、と言うラインをしていて、子供の時より今の方がくるものがあるよねと言うのに、夏が切なくなるのと似てるって返したのが我ながらいいな、っていうのが今日のハイライトです。カンドウスルヨネってなっちゃってるのは誤字です。

 

題名って決められない