夏休みがはじまって、何日くらい経ったのかな。無事レポートも提出したし、やっと始まったのだろうか。大学自体が夏休みみたいなもんだからあまり生活に変わりがない。花火大会に行って焼きそばを食べながら花火を見たり、うなぎを食べたりしている。夏らしいことを並べるとしたら、これくらいだ。

 

  8月10日。サークルの前期定例ライブがあった。わたしはセラニポージというユニットをコピーして発表した。ライブの度に恥ずかしくなってやりたくないと思ってしまうのだけど、何人かがセラニポージ良いねと言ってくれたから良かった。CD一枚しか持ってないけど貸します。C年の女の子達とやっと仲良くなれて嬉しかった。人見知りだからという理由で話しかけられなかったのがもったいなかったと思った。あの子のタンブラーが素敵だった。みんなほとんどオリジナルだった(オリジナルサークルだから当たり前か。)、これからどんどん活躍していくんだろう。わたしは家でひとり、なにか音楽のようなものを作りはじめている。

その後打ち上げ。戸山公園での二次会で、輪になって座って怖い話をした。久しぶりにそういう話をしたけど、やっぱり霊より生きている人間が一番怖いと思った。途中から雨が降ってきて、傘をさしながら話した。林さんと相合傘をした。公衆トイレを覗いて叫んだりしてしまった。夏っていう感じだ。そのあと、トラブルがあって結局夜に帰らなかった。居酒屋わっしょいで、キウイには自我があるというおかだみほの話を聞きながらうたた寝。しじみの味噌汁が美味しかった。特筆するほど何かを話した訳ではないけど、なんだかんだ一番居心地が良くて楽しいところだ。気づいたら財布に150円しかなかった。

 

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  8月11日。朝、車で実家組が迎えにきた。姉選曲のSMAPが流れている車中ですこし眠る。母がメロン農家のメロンに除草剤がまかれたらしいという話をしてた。祖母の家がある長野に着く。おばあちゃん、足が痛そうだけど、元気そうで安心した。「早稲田大学合格おめでとう」と言われる。そうか会ってなかったな。大学のことをいろいろ聞かれたけど、あまりうまく答えられなかった。24時間営業のファミリーマートができていたから、雨上がりの夜道をすこし散歩してファミリーマートへいった。特に変わったものもなく、アイスを買って帰宅。夜、メロンを食べ、また母がメロン農家のメロンに除草剤がまかれたらしいという話をしてた。
子供はわたしと姉しかいないけど、そろそろ子供という年齢ではなくなってしまったな。30代になっても大人だけでおばあちゃん家に帰ってたら寂しいなと不意に思った。こういう理由で結婚して子供をつくったりするのかな。なんの気兼ねもなしに毎年帰ってきたいものです。

 

そんな感じ。静かすぎて眠るのが怖い。

 

 

untitled#8

 2日間、風邪をひいたのでひきこもっていた。体調が悪いと何もやることがないな。すこしギターをひいて実家から持ってきた『火の鳥』を読んだりして、寝て起きて、ぐーたらぐーたらしていた。シーツと布団カバーを洗って、お布団を干したら、とても良い匂いだ。いま結構幸せを感じているかもしれない。レポートは何一つ進まなかった。

 

 8月1日に東京国際フォーラムsigurrosのライブに。タイトルは〈AN EVENING WITH SIGUR ROS〉。二部構成で途中休憩が20分間あった。ライブというか、コンサートというか、エンターテイメントというか、パフォーマンスというか。天国というよりは異世界若しくは地獄をみた、という感じのステージだった。予想通りOlsen Olsenはやらなかったけど、おちがやってくれと散々言っていた”Sから始まるやつ”は第二部でやってくれた。


Sigur Ros - Olsen Olsen - HD


Sigur Rós - Sæglópur (High Quality)

このタイトル、”失われた船員”という意味らしい。始まった瞬間の歓声がとてもよかった。

 開演前から不穏な音楽が流れ、「今日わたしたち命日だ〜〜どこかに連れて行かれる〜〜」とかふざけて言っていたら、ほんとうにどこかに連れて行かれてしまった。完全に体力が持って行かれた、いのちがない。休憩時間にがんばって立ち上がって外に出ると、窓の向こうにはいつも通りの東京の風景が広がっていて、いつも通り電車が走っているし電光掲示板が光っていた。本当に「あれ、おかしい」と思った。会場に戻って、パラレルワールドの話をしたり、「ヨンシーがよろけて後ろに後ずさるのが怖くて笑えてきてしまう」とかそういう話をしていたらあっという間に第二部が始まった。ヨンシーの顔に針がいっぱい刺さっている映像が流れて怖かった。

 ずっと座りながら見ていたのに、体力がとてつもなく吸い取られてしまった(実際、風邪が悪化した)。スタンディングオベーションシガーロスのメンバー3人を拍手で見送り、そして私たちは”Takk...”に見送られ、オチと感想(あの人数の人間がシガーロスを見にきていてこれから通常の生活に戻るのが気持ち悪い、とかそういう話)をグダグダ言いながら帰路。電車に乗って帰っている自分を理解できなかった。さっきまであんなところにいたのに、という感じだ。ネタバレになるかもしれないけど『ポケットモンスター キミにきめた!』をTOHOシネマズ新宿で観た後、歌舞伎町に出た時と同じ心持ちになった。「なんだここ、並行世界どこ」状態です。あ、こんなに言っていますが、とてつもなくよかったです、ライブ。最後まで3人とは思えなかった。あとヨンシーの歌がうますぎて泣けました。

 

 ライブの前にホットケーキを食べたり展示を見にいったりした。あとペッパーに恐怖心を煽られたりしましたが、省略します。おかげさまで風邪はだいぶ良くなりました。約束していたのに断ってしまったひとたち、ごめんなさい。すべてシガーロスのせい、ということで。

 

七月末日

 

 驚く速さで日々は過ぎていって、まるで私だけ止まっているみたいだ。昨日食べたご飯も、一昨日会ったあの子との会話も、どんどん忘れてしまって、なにもかも思い出せなくなってしまうのだろうか。人生は要約できない、だなんて聞いたことがあるが、様々な些細な出来事(今日あの人とあんな会話をした、とか、今日はいつもと違う道で帰った、とかそういうもの)がいちばん人生の中で重要だったりするのかな。そういうもののために毎日日記などを書いたほうがよかったりするのか。

暦の上ではあっという間に7月が終わり、夏休みが始まろうとしている、らしい。夏休みってもっとわくわくしながら始まったような気がしていましたが、期日が来週の土曜までのレポートもあったりしてまだ始まっていないような、始まってしまったような、不思議な気持ちです。レポートやらないといけないのに、エヴァンゲリオンを見始めてしまいました。全て明朝体にしたい。友達がいろんなひとと約束しているのをよく見ます。夏って感じがすごい。わたしのスケジュール帳はなんだか、バイトと恒例行事くらいしかはいっていないので今まで通りで夏が終わってしまいそうだ。お祭りとかあとなんか、他も、だれかいきましょう、いきたいです私も。

 

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 そういえば、先日引っ越した。はやくもこの廃れたなにもない場所を好きになっている。とくになにもないところだけど、走っている路線がすこし地元の在来線に似ているし。実家は電車が走る音や車が走る音が、遠くに聞こえてくるような場所で、この家も電車が走る音が遠くに聞こえて来て、なかなか良い。あと川がある。東京らしい、ああいう川です。

 

 毎年帰省する祖母の家の近くにも、川がある。夏に帰省するときは、すこし上流に行ってボロボロの赤い橋の下あたりでいつも潜っていた。もぐると、水は澄んでいるし、冷たくて気持ちよくて、魚もいる。大きな岩が転がっていてそれをピョンピョン跳ねながら移動していくのが好きだった。父と一緒に水切りをしたりして、わたしは2回くらいしかとばないのに、父はいつも遠くまで水切りしていて、こういう石の方が水切りしやすいよ、とかそういうのを教えてくれた。日が暮れてくると鳴る、ダム放流のサイレンがいつもすこし怖かった。そういうことを思い出せるし、川が近くにあるのはかなり良い。思い出せることがまだたくさんある。夏が切なくなって悲しいと感じるような季節に変わって来たのは、思い出す過去が眩しくてたまらないからなような気もする。

 

 過去に生きるのが好きだ、過去を後悔するのが好きだ、過去を振り返るのが好きだ。だから、そういう思い出して愛おしくなるような過去をもっともっと、つくっていきたいと思いました。わたしは未来を愛おしく眺めることは少し苦手だけど、過去のために現在を生きていくことなら、いっぱいできるような気がします。忘れてしまうことはたくさんあるけど、覚えていたいことも思い出したいこともまだまだたくさんある。いつかの私は、この7月のなにを思い出すのかな。

 


ぼくのなつやすみ【メインテーマ】高音質

載せがちですが今回も載せます

 

 

29

朝からブログを書くのは初めてかもしれない。

昨日は早稲田松竹で『イン・ザ・スープ』と『スモーク』を見て、なかなかいい気持ちで電車に乗っていたら最寄駅に近づいていくにつれ、なかなか悪い気持ちに変わっていったので、それをはてなブログに書き殴っていたら5回ほどアプリがおかしくなり、消えた。6回、書き直したりはしなかった。

 

最近、色々な人に「うしやまのツイッター意味がわからない」と言われるのですが、ツイッターって何呟いてもよくないか?フォロー/フォロワーの関係があるからそんなこと言われるのかな。タイムラインに半強制的に他人のつぶやきが入ってくるからかな。ほとんどのツイートを、つぶやきとして呟いているわたしにタイムラインもくそもなく、寧ろ現実のつぶやきと同様に一瞬で世界に紛れてほしい、くらいにおもってます。つまり、わたしのツイッターに特に何かを伝えたいという意志はなく、ましてや情報を発信しているわけでもない。日常生活において時々鼻歌を歌いたくなって歌ったり、ふとため息をついてしまったり、等と同様な行為であります。SNS大好きだけどSNS向いてないのかな。あまりにも言われるので言い訳をした。

 

ここ3ヶ月くらい承認欲求について考えている。人間に承認欲求が伴わなくなったら、死んだようなものかな。誰かに見てもらってないと生を実感できない生物、ほんとうにひとりでいると生きているのか考えてしまう生き物、他者や社会との繋がりによって息を実感する生き物。

今、承認欲求というものが私の全人生の中で一番なく、音楽やりたい気持ちはとてつもなくあるのに、伝えたいことも聞いてほしいこともほとんどない。漂流郵便なんて書かなきゃよかったのかな〜〜。承認欲求って人間の欲の中で一番恥ずかしくないかって言ったら、承認欲求がない方が恥ずかしいよって言われたから、それを飲み込んで消化していきたい。承認欲求とは恥ずかしくないことである。引っ越したら何か変わるかな、とアホみたいに考える。

 

前回ブログを更新してから29日くらい経ちましたが、特にこれといって何か特筆すべきことがあったわけではない。狭いこの場所で息をしていたら、地球は自転し気づかぬ間に日付変更線を超え、よくわからない時間の区切りにただただ従っていた感じだった。人間はひとりひとり違く、感動や悲しみ等の感情の動きを、他者と完全に共有し、他者の前に再現したりすることはできないと、実感はしたかもしれない。

わたしたちはみんなちがうにんげんなので、ひとりひとりちがいます。かんがえていることも、みえるせかいも、ひとりひとりちがいます。みんなおなじにんげんですが、みんなちがうにんげんです。それはけっして、おかしいことでもわるいことでもありません。しごくあたりまえなことなのです。

普通という基準がなんなのか知らないけど、自己を他者に投影して、思考が違うと理解できず勝手に嘆くのは、お門違いだということを意識していたいです。

例えば、ひとりひとり違う色彩を持っていたら。虫や犬と人間では見えている色が違うけど、人間同士の中でも生まれつき持っている色彩が違っていたら。今私が見えている青という色を、私の中の赤という色として認識している人がいたら、色の組み合わせの好き嫌いも感じ方のちがいも現れてくるだろう。私にとっての青色の青が、他者にとっては生まれつき赤色の青だったりする。うまく説明できないけど、私にとっての赤色が、他者には青色として見えていたりしたら・・・・・・説明できない!

 

違いというのは生を受けた時点で備わってくるものなのかもな、なんて思うってことだ、私が見てる世界が他者には違う風に見えるのも、他者が見ている世界が私には見えなかったりするのも、仕方がない、なんてことないことだ。というわけでツイッターにも、同じであることを求めないでほしい。29日間そんなことを考えた。

 

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あたまのなか

最近かんがえていたことを、整理したいからまとめてみる。

 

とある授業で読物と文学の違いは、事件があるか否かである、と教わった。事件とはその経験前後で、自分の内部の一部若しくは全てが変わる、ということであるらしい。 

10代の頃に体験した文化的な衝撃は、その後の人生において深く影響を与えるものだと思う。おそらくその都度事件が起こり、自分の中の常識が崩壊する。3年後の自分が常識として理解していることも、10代のうちでは違うことだ。例えば、人間が生き、いずれ必ず死ぬという自明な事実も、10代のうちに体験すれば、大きな事件のひとつであるだろう。

 

しかし、大人になるにつれて、事件と出会う確率は格段に減っていく。

事件とは別に、生活をしていると私たちの常識が壊れ、変わることがある。子供の頃に許されていたことが子供であったから許されていた、と知ることがある。その時、私たちは自分の中の常識を変える。その常識は、大人になればなるほど、生活の月日を重ねれば重ねるほど、固定されていく。そして、まだ無知な常識の人々を子供だなあと思うようになるのではないだろうか。

 

では、大人とは一体なんなのだろう。

自分で働くようになってから?20歳を超えてから?お酒を飲んで深夜まで起きているから?だから大人なのだろうか。

子供になりたいと思ってしまった時から、私は大人になってしまったんだと思う。勿論まだまだ無知だし、子供っぽいところもたくさんある。だけど、大人と子供の狭間のような場所に立っているのだと思う。少し、昔の常識が崩れ、新たな常識が生まれていく。その過程が、大人になっていく、ということなのではないだろうか。

 

世界に新しいことは、何もない。だからこそ、私は既知の中から未知を見出す生活を送りたいと思っています。既知の中で事件を体験し、常識が崩壊するような、生活。《既知を疑え、未知を遊べ》、そういう謳い文句に踊らされてこの学部に入学したけれど、まだ間違ったとは思っていない。毎日楽しい。

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一回書いて、消えてしまったから書き直したものの、全然違う文になってしまったような気がする、悲しい。