29

朝からブログを書くのは初めてかもしれない。

昨日は早稲田松竹で『イン・ザ・スープ』と『スモーク』を見て、なかなかいい気持ちで電車に乗っていたら最寄駅に近づいていくにつれ、なかなか悪い気持ちに変わっていったので、それをはてなブログに書き殴っていたら5回ほどアプリがおかしくなり、消えた。6回、書き直したりはしなかった。

 

最近、色々な人に「うしやまのツイッター意味がわからない」と言われるのですが、ツイッターって何呟いてもよくないか?フォロー/フォロワーの関係があるからそんなこと言われるのかな。タイムラインに半強制的に他人のつぶやきが入ってくるからかな。ほとんどのツイートを、つぶやきとして呟いているわたしにタイムラインもくそもなく、寧ろ現実のつぶやきと同様に一瞬で世界に紛れてほしい、くらいにおもってます。つまり、わたしのツイッターに特に何かを伝えたいという意志はなく、ましてや情報を発信しているわけでもない。日常生活において時々鼻歌を歌いたくなって歌ったり、ふとため息をついてしまったり、等と同様な行為であります。SNS大好きだけどSNS向いてないのかな。あまりにも言われるので言い訳をした。

 

ここ3ヶ月くらい承認欲求について考えている。人間に承認欲求が伴わなくなったら、死んだようなものかな。誰かに見てもらってないと生を実感できない生物、ほんとうにひとりでいると生きているのか考えてしまう生き物、他者や社会との繋がりによって息を実感する生き物。

今、承認欲求というものが私の全人生の中で一番なく、音楽やりたい気持ちはとてつもなくあるのに、伝えたいことも聞いてほしいこともほとんどない。漂流郵便なんて書かなきゃよかったのかな〜〜。承認欲求って人間の欲の中で一番恥ずかしくないかって言ったら、承認欲求がない方が恥ずかしいよって言われたから、それを飲み込んで消化していきたい。承認欲求とは恥ずかしくないことである。引っ越したら何か変わるかな、とアホみたいに考える。

 

前回ブログを更新してから29日くらい経ちましたが、特にこれといって何か特筆すべきことがあったわけではない。狭いこの場所で息をしていたら、地球は自転し気づかぬ間に日付変更線を超え、よくわからない時間の区切りにただただ従っていた感じだった。人間はひとりひとり違く、感動や悲しみ等の感情の動きを、他者と完全に共有し、他者の前に再現したりすることはできないと、実感はしたかもしれない。

わたしたちはみんなちがうにんげんなので、ひとりひとりちがいます。かんがえていることも、みえるせかいも、ひとりひとりちがいます。みんなおなじにんげんですが、みんなちがうにんげんです。それはけっして、おかしいことでもわるいことでもありません。しごくあたりまえなことなのです。

普通という基準がなんなのか知らないけど、自己を他者に投影して、思考が違うと理解できず勝手に嘆くのは、お門違いだということを意識していたいです。

例えば、ひとりひとり違う色彩を持っていたら。虫や犬と人間では見えている色が違うけど、人間同士の中でも生まれつき持っている色彩が違っていたら。今私が見えている青という色を、私の中の赤という色として認識している人がいたら、色の組み合わせの好き嫌いも感じ方のちがいも現れてくるだろう。私にとっての青色の青が、他者にとっては生まれつき赤色の青だったりする。うまく説明できないけど、私にとっての赤色が、他者には青色として見えていたりしたら・・・・・・説明できない!

 

違いというのは生を受けた時点で備わってくるものなのかもな、なんて思うってことだ、私が見てる世界が他者には違う風に見えるのも、他者が見ている世界が私には見えなかったりするのも、仕方がない、なんてことないことだ。というわけでツイッターにも、同じであることを求めないでほしい。29日間そんなことを考えた。

 

f:id:qicmip:20170618095209j:image

 

永遠

永遠の半ばはそろそろ過ぎていて

何かに戻るつもりはない

The Wisely Brothersの鉄道という曲の一節です。


The Wisely Brothers 鉄道【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

まるで僕らは初めから全てを失うために生まれたみたいだな

40年経ったらもしかして骨だけになるかな

葬儀の列に君がきたところで 遅いって

もう灰になった

こちらはアジカンのゴッチのソロ。歌詞がいいので非公式のリリックMVの方を。


LOST/喪失 - gotch (lyrics MV)

 

2曲とも、生活の裏に潜んでいる死が述べられている歌だと思う。

私たちが勝手に明日が来ると思っていることも、明日の連続を重ねれば永遠だというふうになってしまう。永遠は信じていないし、ありえはしないと思っているけど、《永遠の半ばはそろそろ過ぎていて》という歌詞を聞くと、「あ、そうだった私たちが永遠だと思っている年月は、永遠ではなく、限られたものだった」と思い直すことができる。「どうせ死ぬんだから何をやっても意味ないじゃん」なんていう思春期特有の疑問の答えを未だに見つけられないし、聞かれても上手に答えられたことってないんだけど、この曲たちを聞いている失うことへの切なさを知って、それさえも愛するために世界を生きてもいいんじゃないかなって、思っちゃうね。どうせ死ぬんだけど、どうせ生きる。

 

と、べつに死のうとしている友人を励ますためにこのブログを書いているわけでもないのだけど、なんだか暗くなった。あはは。私は一度ハマると同じ曲ばっか聞いてしまうから、そろそろ色々浅く広く知って生きたい。

 

1週間のうち1日は無言を貫く日がないと疲れ果てて死んでしまいそうなんだけど、ここ2ヶ月くらいそういう1日を設けられていないので、今疲れ果てて死んでしまいそうだ。言葉の言い回しで、言葉の中身は変わってしまうけど、言葉の言い回しで言葉の中身が変わってしまうような言葉しか発してない気がします。かといって、毎日がヒコさんの最近のことのように特記することがあるわけでもない。

 

なんだか、5月病とかいうやつなのかもしれない。引越しをしたい。

 

f:id:qicmip:20170520004249j:image

 

あたまのなか

最近かんがえていたことを、整理したいからまとめてみる。

 

とある授業で読物と文学の違いは、事件があるか否かである、と教わった。事件とはその経験前後で、自分の内部の一部若しくは全てが変わる、ということであるらしい。 

10代の頃に体験した文化的な衝撃は、その後の人生において深く影響を与えるものだと思う。おそらくその都度事件が起こり、自分の中の常識が崩壊する。3年後の自分が常識として理解していることも、10代のうちでは違うことだ。例えば、人間が生き、いずれ必ず死ぬという自明な事実も、10代のうちに体験すれば、大きな事件のひとつであるだろう。

 

しかし、大人になるにつれて、事件と出会う確率は格段に減っていく。

事件とは別に、生活をしていると私たちの常識が壊れ、変わることがある。子供の頃に許されていたことが子供であったから許されていた、と知ることがある。その時、私たちは自分の中の常識を変える。その常識は、大人になればなるほど、生活の月日を重ねれば重ねるほど、固定されていく。そして、まだ無知な常識の人々を子供だなあと思うようになるのではないだろうか。

 

では、大人とは一体なんなのだろう。

自分で働くようになってから?20歳を超えてから?お酒を飲んで深夜まで起きているから?だから大人なのだろうか。

子供になりたいと思ってしまった時から、私は大人になってしまったんだと思う。勿論まだまだ無知だし、子供っぽいところもたくさんある。だけど、大人と子供の狭間のような場所に立っているのだと思う。少し、昔の常識が崩れ、新たな常識が生まれていく。その過程が、大人になっていく、ということなのではないだろうか。

 

世界に新しいことは、何もない。だからこそ、私は既知の中から未知を見出す生活を送りたいと思っています。既知の中で事件を体験し、常識が崩壊するような、生活。《既知を疑え、未知を遊べ》、そういう謳い文句に踊らされてこの学部に入学したけれど、まだ間違ったとは思っていない。毎日楽しい。

f:id:qicmip:20170513213002j:image

 

一回書いて、消えてしまったから書き直したものの、全然違う文になってしまったような気がする、悲しい。

 

 

GW

9連休も終わりに差し掛かっております。今日は久々に授業があり、柄本明氏の話を聴きました。演技をしたことはない。柄本さんは当たり前のように言ってたけど、うそやん!って感じだった。

 

 

4月末からGWにかけて撮り溜めていたフィルムを2本現像致しました。人を撮る!っていう目標のもと撮ってたから、みんなの顔いっぱい写ってて嬉しい。写真撮るの好きだなあ。ここには載せませんが、インスタグラムでフィルム用のアカウントがあるので、ご興味があれば。

https://www.instagram.com/p/BTQGXB3AThC/

tokyo

https://www.instagram.com/p/BTwRHV8ACHY/

ピンボケも一興

 

 

にしても、あっという間のGWだった。ポールマッカートニーから始まり、柄本明氏で終わる。贅沢極まりない。奥山由之の写真展も二つとも行ったし、映画館で3本見たし、美味しいものもいっぱい食べた。

一番のハイライトはオチとシガーロスを歌ったことだなあ、シガーロスを友達と歌マネできる日が来るとはね!

 

あっという間に日々は過ぎていくのに、やりたいことは多すぎるし、苦手な人と話さなきゃいけないし、興味のない科目も勉強しなきゃいけないなんて人間の生活は面倒だ。あしたこそ、二外を。

 

久々に日記らしい。

 

 

この世界の片隅に

f:id:qicmip:20170412195555j:image

この世界に絶対はない。だけどこの世の全てのものが生まれ、そして死ぬ。それだけは、絶対。

この世界の片隅に』を観ました。受験だし、と後回しにしていて、もうタイミングがないと思ってた。ある授業で観て来いと言われたのがきっかけだけど、観て良かった、本当に観て良かった。

私達が学んだ教科書の中の戦争に、一個人は写らない。うつったとしても、軍人や役人だろう。一般庶民の生活は"戦時中の暮らし"という見出しの中に、こじんまりとしか存在しない。ましてやそれも図説の中だけだったりする。そこに一個人はいない、死んだ人を知ることもできない、悲しんでいる人を知ることもできない。そういう、戦時の生活に、しっかりと感情を震わせて生きている人たちの物語でした。

戦争中も人々は生きてる、みんなが笑って暮らせる日を考えながら、死が無駄に終わらないように日本が勝つことを信じながら、生きている。

私は勝手に人間生活は死んでいく過程の一つだと思ってました、終着点は死ぬことだと思ってました。間違ってた。この人たちは死んでいくんじゃない。私も死んでいくんじゃない。生きていく過程に、ちゃんと立っているんだと思う。

 

ということを考えました。とても強くて、知らないことを知った。私は知らないことだらけだ〜〜。1人で見ても泣いたけど、誰かと観たら大切さが攻めてきてもっと泣いてた気がします。まだ観てない人、まだまだやってるから是非ね。きっとみんな見てるよね〜〜。

 

昨日も二本映画を見て、映画強化月間、といわず映画強化年間を始めようと思ってます。恥ずかしながら先日授業で名画座の魅力に気付かされたので二本立てめっちゃ見ようと思います。

昨日見た『幸せなひとりぼっち』も良かった。インプットいっぱい。